多摩という土地は、自分の中の原風景。 台風クラブ・石塚淳さんインタビュー(前編)

2024/08/03 Sat
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きっかけはひょんなことだった。
ある好きなバンドのTシャツを通販で購入すると、商品と共に「幼少期を多摩で過ごしたので、とても懐かしくなりました」という手紙が入っていたのだ。
いちファンの住所に昔を懐かしみながらグッズの梱包作業をする姿は、ギターを掻き鳴らし歌うその人の姿からはなかなか想像がつかない。
「その人」の正体は、京都を拠点として活動する3人組ロックバンド、台風クラブのフロントマン、石塚淳さんだ。関東へのライブ遠征の合間に多摩までお越しいただき、話を聞いた。(前編)


後編はこちら

取材/文
木内瞳吾
写真
ゆうばひかり
編集
山末あつみ
取材場所
おむすびカフェ くさびや(多摩市)
石塚 淳(いしづか じゅん)

京都を拠点に活動する3ピース・バンド「台風クラブ」のギター、ヴォーカル。1986年生まれ、大阪府出身。
2013年京都で「台風クラブ」を結成、2014年に山本啓太(ベース)、伊奈昌宏(ドラム)の現体制となる。デビューアルバム『初期の台風クラブ』が第10回CDショップ大賞2018準大賞を受賞。2023年には待望のセカンドアルバム「アルバム第二集」を発売し、全国ツアーを回る。
バンドでは作詞・作曲だけでなく、グッズ制作なども自らの手で行っている。現在はバンド活動と並行し、ソロで弾き語りライブにも出演。実は幼少期に多摩市に在住歴あり。

老後は多摩ニュータウンがいい

僕が台風クラブの通販でグッズを購入させて頂いた時に、「幼少期を多摩で過ごしたので、とても懐かしくなりました」と、石塚さんの直筆の手紙が入っていまして。それで一気に親近感が湧いてしまい、ダメ元でお話を伺えないか訪ねたところ、ご快諾頂いて今回のインタビューが実現しました。多摩のメディアに、京都のバンドマンの方が出ていただけるとは思っていませんでした!

石塚さん

多摩ニュータウンに3、4歳ぐらいまで住んでいたんです。ただ、物心がつく前なので、具体的な記憶はほぼないです。3、4歳で大阪へ引っ越してからは、高校を卒業するまで大阪に住んでいました。
小学生の頃にジブリの『耳をすませば』が公開されて、おじいちゃんと観に行ったんですよ。それを観た時、すごく懐かしい感じがして、後で調べたら、聖蹟桜ヶ丘が舞台だと。映画に出てくる団地も、おれが住んでいた感じと同じだったんです。だから、多摩という土地は、自分の中の原風景としてめちゃくちゃ記憶に残っています。

大人になってから、多摩に来られたことは?

石塚さん

ダブルオー・テレサというバンドでギターを弾いてた上野智文さんがやっている『MASCOT.』(聖蹟桜ヶ丘)というお店に行く機会があって、その時に車で多摩ニュータウンを回ってみました。そしたら、めっちゃくちゃよくて! マジで老後は多摩に住もうと思いました。

長らく京都で生活とバンドをされていて、愛着はあるかと思うのですが、それでも老後は多摩ですか?

石塚さん

おれは高校生の時、日本のロックに憧れて、京都で生まれた音楽がすごく好きになって京都を選んだクチなんですよ。だから、京都の風景もめちゃくちゃ好きだし、人生の半分以上を京都で住んでいるけど、それでもやっぱり老後は多摩ニュータウンがいいかな。

そんなに多摩がお好きなんですね。

石塚さん

ライブで日本のあちこちへ遠征に行くじゃないですか。その中で、いくつか「老後はここに住みたい」と思っている土地があって、それが香川と金沢、軽井沢と、多摩ニュータウンです。その中でも、多摩ニュータウンはめっちゃ現実的なんですよ。家賃とかもいい感じやし。

多摩に住んでいた時の、思い出の場所ってありますか?

石塚さん

『かおり保育園』へ通っていたことだけは覚えていたので、車で訪ねてみたりもしました。
あとはやっぱり団地群がよかったですね。一般的な団地群って、まったく同じ形をした建物が連なって建っているんですけど、多摩の場合は、高層階の団地もあれば、低層階の団地もあったりして。その揃ってない雰囲気がめちゃくちゃ良かったですね。

逆に石塚さんが感じている京都の好きなところも聞きたいです。

石塚さん

どこへ行くのもチャリで済むところですね。京都に住んでいると、遠乗り以外で車に乗ることがまったくないんです。ライブハウスへ行くのも本屋へ行くのも、全部チャリです。
あと、「京都人はよそ者に冷たい」とよく言われますが、学生には優しいんですよ。僕は大学進学で京都へ来て、そのまま居ついたパターンなので、いわゆる“京都どす”みたいな文化と関わりがないのもよかったです。

やっぱり西洋の若者がエレキギターを手にしてやっている音楽が好きなんだ

昨年は、1stアルバム『初期の台風クラブ』から約5年半ぶりに、2ndアルバム『アルバム第二集』をリリースされました。少し楽曲のテイストが変わっているように感じましたが、何か石塚さんやバンドに変化があったのでしょうか。

石塚さん

台風クラブはいまのところ、曲を作るのはおれだけなんです。おれが影響を受けたものを、おれというフィルターを通してメンバーに伝えて、さらにそれが個々のフィルターを通って、台風クラブの曲ができるっていう。おれが影響を受けてきた音楽をやるみたいなコンセプトがあるので、台風クラブは音楽のジャンルがあまり定まらないんです。

“ロックのごった煮”のような印象を受けました。

石塚さん

そうですね、台風クラブはごった煮です。そのごった煮の中身って、全部ユースカルチャーなんですよね。ジャリくさい音楽のごった煮だから、おれらの音楽って円熟味がないんだと思います。

そのスタイルは変わらずに続けていきたいですか?

石塚さん

そこはまったく決めていないです。ただ、おれのルーツを紐解いていくと、パンクロックを聴いてアツくなったり、THE HIGH-LOWSに憧れていたので、やっぱりユースカルチャーの影響が大きいのかなと思います。
きっと本当のごった煮って、カリプソやアフリカの音楽を取り込んだりするじゃないですか。そうじゃなくて、おれはやっぱり西洋の若者がエレキギターを手にしてやっている音楽が好きなんだと思いました。

以前、ラジオ番組で銀杏BOYZの峯田さんと手紙のやりとりをされていました。当時、峯田さんがやっていたバンドのGOING STEADYは、あまり石塚さんに刺さらなかったそうですが、それは石塚さんが尖っていたから?

石塚さん

そうですね。中1~2の時に、THE HIGH-LOWS、THEE MICHELLE GUN ELEPHANT、Oasisといったバンドに出会って、50年代のロックンロールや60年代ガレージパンクのレコードを買うようになって、スリーコードで爆発的なロックンロールをやるっていうのが、当時のおれのアイデンティティになっていたんです。
その頃のライブハウスは、メロコアやスカコアが大流行していて、おれの中でそういった音楽をやっているバンドは仮想敵でした。「盛り上がりやがって」みたいな。でも、それも聞かず嫌いで、実際はいい音楽として、すごく耳に残っていたんです。おれは本当にひねくれ者でしたね。

逆に、それを受け入れられるようになったのはいつ頃ですか?

石塚さん

二十歳過ぎぐらいですかね。ブックオフで、いろんなジャンルのCDを買うようになり、カーネーションやピチカート・ファイヴに出会って、スリーコードから解放される時期がありました。めちゃくちゃカッコいいと思って、そこからですね。
28、9歳まで、外気に触れてこなかったと言いますか。レコードを買って、本を読んで、大学も8年かけて卒業したので、その期間にいろんなものが発酵した感じですね。

ちなみに、『台風クラブ』というバンド名は、同名の映画『台風クラブ』に由来しているんですか?

石塚さん

Oasisがバンド名を決める時に、そこに貼ってあった何かのバンドのポスターに“Oasis”って書いてあったからとか、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTも、“マシンガン エチケット(Machine Gun Etiquette)”の読み間違いだったとか、ノリでバンド名を決めたみたいな話ってよく聞くじゃないですか。
僕もバンド名を決めるならライトなノリで決めたいと思っていました。何にしようかなと思った時に、昔、夜中に『台風クラブ』っていう変な映画やってたなと思って。台風クラブって名前いいなと思って、バンド名にしたっていう感じです。もちろん映画自体も好きですけど。

台風クラブの音楽はあの映画にマッチするような。

石塚さん

わかりやすい起承転結じゃないところも、共通している気がします。

後編に続きます!

後編はこちら
木内瞳吾

日野生まれ、多摩市在住。くさび社所属。緑色のものを追いかけるのが好きです。夢は多摩市に銭湯を作ること。

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