多摩市出身元Jリーガー・坪井慶介さん&田村直也さん対談<前編>終わりは、はじまり

2021/11/30 Tue
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同じ多摩市をルーツに持ち、2019年に同時にプロ選手生活に終止符を打った2人の元サッカー選手がいる。
浦和レッズで長く活躍し、日本代表としてドイツワールドカップにも出場した坪井慶介さんと、ベガルタ仙台と東京ヴェルディで闘志あふれるプレーが魅力だった田村直也さんだ。

現役生活を退いた今の心境やこれからについて、育った多摩市について、そして今だから話せること。
TAKE TAMA!のオープン記念企画として実現した、2人の「レジェンド」の対談をお届けします。

Writer/Interviewer
キウチトウゴ
Photographer
ゆうばひかり
田村直也(たむらなおや)

多摩市出身の元プロサッカー選手。落合SC、FC多摩から東京ヴェルディユース、中央大学を経て2007年にベガルタ仙台入り。闘志あふれるプレーと右足の正確なキックが持ち味。2014年より地元の東京ヴェルディに移籍しキャプテンを務めるなど、豊富な経験を活かし若手主体のチームを支える。
2019年をもって現役引退し、現在は第二の故郷・仙台にてサラリーマンに転身し、家族を支える。Jリーグ通算317試合出場。
1984年生まれ、さそり座のB型。好きなラーメン屋は堀之内の「にんにくや」

坪井慶介(つぼいけいすけ)

多摩市出身の元プロサッカー選手。鶴牧SCでサッカーを始め、四日市中央工業高校、福岡大学を卒業後、2002年に浦和レッドダイヤモンズに入団し、以降13年間在籍しチームに多くのタイトルをもたらしたスピードとハードなマークが魅力のディフェンダー。日本代表として、2006年ドイツワールドカップにも出場。
湘南ベルマーレ、レノファ山口を経て2019年シーズンを最後に現役を引退し、2020年からはタレントという新たな道へ転身し、解説などで活躍中。Jリーグ通算317試合出場。
1979年生まれ、乙女座のO型。実は温泉ソムリエの資格を持っている。

2人の多摩遍歴

なかなかこれまで、地元「多摩市」についてお話する機会は無かったかと思いますが、まずはお二人の多摩歴についてお聞かせください。

田村

僕は中央大学卒業まで多摩市の実家に住んでいました。多摩歴は長いっちゃ長いんですけど、遊ぶときは八王子とか町田に繰り出していたんですが、中1とかそのくらいの年齢のときは範囲的にあまり遠くには行きませんでした。

坪井

範囲的っていうと多摩センターくらいだね。あとはやっぱり鶴牧と落合。その二つぐらいで、その界隈では相当遊びまわったね。

小学生のときって、電車に乗ったりしてあんまり外にでないですもんね。

坪井

そうそう、電車は乗らないし乗っても永山あたりまで。それだけでも遠出みたいな感じで。

坪井さんは、中学校は町田に通ってらっしゃったんですね。

坪井

そうですね。実は小6のときヴェルディジュニアユースのセレクションに落ちてるんですよね。それで、中学校のサッカー部には入らないで、町田のクラブチームに入っていました。

そうだったんですね!

田村

永山出身の佐伯さん(佐伯直也さん・元東京ヴェルディ等)と同年代ですか?

坪井

佐伯さんは、俺ら世代の憧れの先輩でしたね。

田村さんと坪井さんは6歳差ですので、当時はあまり交流は無かったのでしょうか。

田村

小学校がギリギリ被るかどうかですね。俺が初めてツボさんを知ったのは浦和にいらっしゃるときですね。

坪井

高校は三重、大学は福岡なので、あまり僕の出身を知っている人はいないと思います。もともと両親は岐阜の人間で、当時は東京で仕事をしてたから俺は多摩で生まれたんだよね。そのあと、中2のときに実家ごと岐阜へ行くことになりました。でも、人生で一番長くいたのは多摩ですね。浦和も13年、多摩も13年。

浦和に13年も!レジェンドですね…
お二人とも、同じ2019年で現役を引退されましたが、引退されてからはどのように過ごされていますか?

田村

今は宮城の会社で営業のサラリーマンをやっています。色々とインプットをして、人と会うことで自分が次の道に進むための情報を得たりしていますね。将来的にはいろんな角度からサッカーに対して戻っていきたいので、まずは経営の部分を学んで、多くの方に出会出会って、その人たちを最終的にサッカーに取り込みたいなと。

坪井さんは、解説などを中心にタレント業をされているのですね。

坪井

自分では『タレント業』と言われてもまだピンときてないんですよね。タムともちょっと違くて、ゆくゆくはサッカーに戻るとか、そういうつもりはないんです。どちらかと言うと全く新しいことを始めたいという思いだったので。引退したら一度現場から少し離れようと思っていました。サッカー関連の仕事もまわりつつ、いろんな所で子どもと触れ合うこともできています。講演などをして、また更に新しいものにチャレンジしていくという時期ですね。

不安とかプレッシャーとかいろんなものが、自分が進んでいく活力になる(坪井)

選手辞めることや、次のステップに進むことへの不安はなかったのでしょうか。

坪井

俺はもちろんありましたよ。もともと何歳になったら引退するとかは全く決めていなかったので、何の保証もないし。もちろん事務所には所属するのだけど、所属したからって、仕事があるかどうかもわからないので。保証がないという不安はありましたが、1年間の契約だったプロになりたての18年前も、自分がプロサッカー選手として成功する保証なんてどこにもなかったのを思い出しますね。そう考えると今も昔も同じなのかなって。今のこの不安とかプレッシャーとかいろんなものが、自分が進んでいく活力になると思います。

田村さんは引退の時期を決めていたのでしょうか?

田村

僕は2019年のシーズン終わりに、チームから2年契約ということでお話を貰っていました。自分でちゃんと承諾をしていたのですが、何としてでも昇格して最後のシーズンはJ1でやりたいと思っていたので、契約は自分の中での「責任」という意味のある期間でした。責任をとりたかったという話はさせてもらっていたので、引退という形になりました。

それと同時に、2019年はあまり試合に出られませんでした。原因はもちろん自分の中でわかるし、チームの戦術的にもクロスを使わないようなサッカーになっていたからだと思います。

そんな中、次のキャリアを意識し出したのは夏前くらいでした。もともと30歳過ぎた頃から自分の選手としての生活と、もう一つの顔というのを自分の中でつくっていて、サッカーだけではなく違う世界に行きたいというのも考えるようになっていました。僕の場合は、両面で自分のキャリアを上げていきたいと思っているので、今回のように多摩を盛り上げたいという話をもらったときに、自分が選手としてやってきた価値からしっかり貢献していきたいです。「辞めたので離れる」ではなくて、お世話になった地域の、多摩市と仙台市にお返しをしていきたいという気持ちをずっと持ちながらこの先を過ごしていきます。

坪井

俺なんかタムの影響はあったよ

田村

本当ですか!

坪井

自分が頑張ることで地元への恩返しになることもあるんだなって思えた。

田村

ツボさん俺も、自分の頑張りでここまで来たという気持ちと、育った環境や所属するクラブがなければここまで自分の価値は上がってこなかったという思いが両方あるから、クラブに対しての恩義っていうのは確かにありますよね。サッカーから離れるといっても自分を形成してくれたものとかコミュニティとか、そういったものってサッカーありきだと本当に思うから。恩を返していく気持ちはもちろんある。でも、違う世界で成功することによってサッカー選手の新たな可能性が生まれてくるという意味では、ツボさんがいろんなことにチャレンジしている姿からもすごく刺激を受けています。

恩返しという思いが、行動のモチベーションに繋がっているんですね。

田村

ツボさんが言ったことが全てだと思っています。恩返しはもちろんですが、サッカーの世界に飛び込んだプロ1年目のときの気持ちのままなんです。保証なんてなくて、自分自身で掴み取っていくという自分自身へのチャレンジですよね。成功するしないに関わらずガムシャラにやり続けたところに、何か残っていればいいと思いますし。ただ、僕たちには家族もいるので現実と理想のあいだにあるサッカーと同じようなものなのかなと僕自身は感じていますね。

坪井

その通り(笑)

サッカー選手として、田村さんが13年、坪井さんは18年活躍されてきましたが、これから先の新しい道で、選手よりも長い期間活躍されることも十分ありえますよね。たとえば”タレントの坪井さん“というような。

田村

元々タレントや作家の政治家がいるように、「ツボさんって昔サッカー選手だったんだよ」というくらいになって欲しいなと思っています。僕もそういうサラリーマンであり経営者になっていきたいなと。そのうち、ベガルタ仙台とヴェルディのスポンサーも目指していこうと思っています。そうなれたらいいですよね。

これからのお仕事で「元日本代表の坪井さん」と紹介される事に関してはどう思われるのでしょうか。

坪井

サッカーのイメージはもうなくならないだろうなと思っています。肩書きに関して否定する部分は全くないので、どんな呼ばれ方でもいいですね。この先新しい仕事を何年やるかはわからないけれど、タムが言ったように「元サッカー選手」「元日本代表」と言ってもらえるのは『頑張ってきたんだな』っていうのが感じられますね。

田村

辞めたときにはこうやってみんなに振り返ってもらえますよね。本当に頑張ってきたから、振り返れるキャリアがあると思っています。でも、見てもらえているのは辞めたばかりだからだとも感じていて、新しいことをたくさんすることより、ひとつの新しい道をまたひたむきに歩いていく責任を感じているんです。

坪井さんは、講演なども積極的に行われていますね。

坪井

山口県で、サッカーに関係がないようなPTAの皆さんとか校長先生とか100人くらい集まってくれて、歩んできたことを好きに喋ってくださいっていう講演をしました。テーマを言ってもらった方がいいなと思うんだけど、プロに入ってからの話は皆さん調べてくださいって言っています。そこで話すのは、ヴェルディに本当は落ちてるんですよとか、大学も法政を落ちてるんですよとか。そういう落ちて落ちての繰り返しのなかで這い上がってやってきたんですって話をさせてもらってます。

落ちて落ちての繰り返しを乗り越えてきたなかで、次のステージでもこの経験はいきるんじゃないかなというエピソードはありましたか?

坪井

色んなことがあると思うんだけど、浦和レッズというチームでやらせてもらえたとき、スタジアムが独特の雰囲気で、そのプレッシャーはいい経験でした。あとは、代表として多くの観客の中でプレーさせてもらったときは、メンタル的にもいまの仕事に活かされるなと。タレント業は初めての仕事なので、インタビュアーとか生放送でのトークとかはすごいプレッシャーですね。なので、乗り越えてきたことを思い出して『ああ、あのときの5万人が自分のプレー見てるときと比べてみたら……まあ落ち着け』となりますね。経験のおかげで、自分の
メンタルをスッと落ち着けられる機会は増えたかなと思います。

なるほど。それは確かにサッカー選手独特の経験かもしれないですね。田村さんも仙台の時は、ユアテックスタジアムの大観衆の中でプレーされていました。

田村

俺は試合で結構ハードにいくタイプだったから、相手に怪我をさせてしまったりしたときには、色んなチームからブーイングもらったりとかいろいろありました。埼玉スタジアム5万人のブーイングなんてなかなか味わえるものじゃないですからね。これからは、自分を知らない人に知ってもらうっていう新しいプレッシャーがありますが、今までの経験があるからこそ楽しもうと思えますね。

プロの選手として『俺がピッチに立つ』っていうエゴがないと、やっぱりピッチには立てない(坪井)

お二人のキャリアを見た中で、偶然ではあるんですけど共通点が多いなと思っていて。出身地や引退されたタイミング、ディフェンダーであることもそうですし。あとは長く在席していたチームを離れて別のチームでまた活躍されて引退をしたっていう経歴もお持ちです。キャリアが長いクラブでプレーしたあとに、坪井さんは湘南ベルマーレとレノファ山口、田村さんは東京ヴェルディにそれぞれ移籍されたと思うのですが、ベテランという立場で新しいところに行く難しさはあったのでしょうか。

坪井

キャリアの長い選手みんなが思ってるのは、ベテランになると経験を伝える・残す作業が求められるということ。ベテランになると誰もがそうなっていくのは事実だから、歳を重ねると自分が試合に出れないこともある。納得いかなくても飲み込んでやらなきゃいけないことが増えてくる。ただ、プロの選手として『俺がピッチに立つ』っていうエゴがないと、やっぱりピッチには立てないんですよね。その両方をうまく両立していくのは結構大変で、非常に難しかったのを覚えています。

現役をやっているからには、試合に出たいという気持ちはもちろんありますよね。

坪井

試合に出たい気持ちと経験を伝えていきたい気持ちの割合が、7:3なのか5:5なのかっていうのは人によって違うから、どうすべきかは本当にその人次第。若い選手とか30代の選手からもそういう質問されたことがありましたが、『そんなの考えなくたって良いんじゃない?お前がピッチに立つためにやればいいじゃん』って伝えています。その結果、俺みたいに自分の気持ちを抑えて、チームに尽くしたいと思える選手もいる。満男(小笠原満男さん・元鹿島アントラーズ)みたいに最後まで淡々とやる選手もいる。ベテランになってからの難しさはあったけど、それぞれがそれぞれのやり方を貫くことが一番なのかなって思います。

チームからもそういう試合に出なくても存在感に対しての評価ってのもやっぱりあるんですか?

坪井

もちろん、それはあると思う。それがあったから俺は40までできたと思います。

田村さんはヴェルディにいた時はキャプテンもやられていました。

田村

仙台に何も残せなかったという気持ちが強いままヴェルディに移籍してきたのですが、移籍した初年度でキャプテンを任せてもらえたんですよね。実は移籍当初、仮面を被ったような状態で『自分は実績があるよ』と新しい環境での自分をつくっていた部分があり、それで結構苦しみました。

ただ、キャプテンを任せてもらった1年目は、これを上回ることはないんじゃないかと思うくらいの経験をさせてもらいました。若手、先輩選手、高原さん(高原直泰選手・沖縄SV)とか森さん(森勇介さん・元東京ヴェルディ他)とか色んな方がいる中でもチームを俯瞰してみる能力もついたと思います。中堅としてキャプテンをやったという経験も、監督と選手の間に立つよう中間管理職的な役割の経験も、これからサラリーマンをするにあたってすごく活きていくと思うんです。若手に対して、背中で引っ張っていく姿を見せたり、助言をしたりしましたけど、実際には僕を超えてって欲しいなっていう気持ちがありました。引退を決めたとき、みんなが僕を超えてきたのをすごく実感したので、身を引かないといけない時期が来たなと思ったんです。

ヴェルディでの6年間は『このクラブを復活させる』ってずっと言い続けてきました。それも、自分のキャラクター的に言わなきゃいけないことだという葛藤とともに、6年間常にやってきたことでした。でも、葛藤はありつつもそれを楽しんでやっていたし、素晴らしい人生の経験になったと思います。ベテランとしては、素でやってた部分だけではなく、自分を大きく見せてた部分とが両方ありましたね。

それは若いうちではなく、経験してからじゃないとできない使い分けですね。田村さんは引退の前年まで出場も多く、プレイヤーとして最後まで100%でやりたいという気持ちは強かったんですか?

田村

ありましたね。僕は実績もそんなにないし、プレーで見せるしかないなと思っていたんです。でも、100%のプレーとして自分で納得できなくなってきて、思ってたところに脚が5センチ届かないとか、プレーの遅れを感じてきたりして、サッカーに対しての楽しさが失われていく感覚もありました。あとは、昨年ヴェルディに加入した山下諒也選手が練習生でヴェルディに来たときに、対面で思い切り抜かれたときに思ったんです。自分も35歳という年で次のキャリアに向かうにはギリギリの年齢だったので。全てがこのタイミングでマッチしてきたなというのもありつつですね。

坪井

タムが言ったように、脚がちょっと届かないとか、それが現実的にあったのでそれが一つの要因というのはありますね。俺の場合は、自分で辞める決意ができることも幸せなのかなと感じます。どこも所属先がなくて辞めていく選手も多く、怪我でどうしてもできない選手がいるなか、元気な状態の俺は選手として動こうと思えば動けると思う。けれども、自分が納得できないことがあるから引き際だと決めて、決断できるのは、俺もこのタイミングしかないかなと。多分もう1年やったら、もう動けなくなったから辞めるしかないとか、所属先がないから辞めるしかないとか、そういうことになると思うなって。自分で決断して辞めれるという幸せさを何となく感じたんです。

田村

それはすごく思う。僕は仙台で戦力外通告を受けたんです。その経験があって家族とも話をして『辞める時は自分で辞めようね』って。

前編ではサッカー選手としての、お二人のこれまでのキャリアや、引退への思いを語って頂きました。
後編は「多摩市民」だったころのお二人の思い出などを、掘り下げていきます!後編もお楽しみに!

坪井慶介×田村直也対談 後編はこちら
Writer/Interviewer:キウチトウゴ

日野生まれ、多摩市在住。くさび社所属。緑色のものを追いかけるのが好きです。夢は多摩市に銭湯を作ること。

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Photographer:ゆうばひかり

1994.5.28.生まれ。大阪府出身 東京都世田谷区在住。
ライブフォトグラファー・都市風景写真家としてフリーランスで活動中。

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