「JFLに昇格したい、その一心で毎日やってました」 現役サッカーモンゴルリーガー佐々木瑞穂選手インタビュー【前編】

2021/11/30 Tue
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東京の西側・多摩地区から、自らの道を切り開こうとする挑戦者たちに話を聴く、[ATTACK FROM THE WEST TOKYO]

#001はサッカーモンゴルリーグで活躍する現役プロサッカー選手の佐々木瑞穂選手にお話を伺いました。
諦めきれなかったプロサッカー選手への道のりや、モンゴルで活躍するまでに至った経緯。「道の途中」だからこそ見えてくる、悩みや葛藤、前に進める力は何だったのでしょうか。

Writer/Interviewer
キウチトウゴ
Photographer
絵美里
佐々木瑞穂(ささきみずほ)

日野市出身・現役プロサッカー選手。モンゴルプレミアリーグ・BCH LIONS FC所属。
日野市の南平小学校でサッカーを始める。以降、七生中学、都立久留米高校を経てデッツォーラ島根、カマタマーレ讃岐、町田ゼルビアツヴァイテ、コバルトーレ女川、スペリオ城北、TFSCでプレー。2017年よりモンゴルに渡り、FCウランバートル、セレンゲプレス、デレンを経て現在はBCH LIONS FCに在籍。モンゴルリーグ外国人選抜に選ばれた経験も。

JFLに昇格したい、その一心で毎日やってました。

生まれは日野。サッカーは小さい頃からされていたんですか?

佐々木

そうです。日野生まれです。サッカーを始めたきっかけは小4のときに南平小学校に転校してきたときに。前の学校はクラブとかには入らずただサッカーで遊んでいただけでした。
小学校の頃は、身長がやたらでかくて脚もめっちゃ速かった。小6で170あったから、反則だよね(笑)
小学校のときはディフェンスで、中学校は顧問の人も忙しくて、自分たちでやる感じだったから「フォワードやりたい!」と思ってそれでやらせてもらってました。

なるほど。そして高校はよりサッカーに集中できる環境に。

佐々木

はい。サッカーを頑張ってできる高校に行きました。
高校の途中まではまだ身長も伸びて、身体能力の差もあったから勢いだけでやっちゃってたなって。自分の代になってからは、公式戦には出たり出なかったりで最後の選手権の都大会ではもうベンチ外になっていました。

その時はもう高校で終わりにしようという思いも?

佐々木

サッカーは頑張ってはいたけど、心から楽しいって感情ではなかった。もうフォワードとしても行き詰まっていたし。それであぁ、もう厳しいなと思っていました。
何も勉強したいものもなかったし、でも小さいとき電車が好きだったから、じゃあJRでも受けてみようって受けたら受かっちゃって(笑)
でも、サッカー部を引退する間際に紅白戦でレギュラー組の相手チームとしてセンターバックとかディフェンスで使ってもらえて、そのときに少しサッカーに対する情熱が…「あ、ディフェンス面白い」と思ったんです。で、そのままサッカーへの想いがまた膨らんでゆくなかで引退して、高校サッカーは終わっちゃいました。

高校卒業後はまず島根のチームに所属されていますが、どんな経緯だったんでしょうか。

佐々木

社会人になってからは休みの日に友達と草サッカーをする程度だったんですが、やっぱりサッカーをやりたくなって、最初は中国社会人リーグの、セントラル中国(現・デッツォーラ島根)というチームに入れさせてもらいました。
インターネットも今より浸透してなかった頃だから、サッカーダイジェストの白黒のページにセレクションの情報がすごく載っていて。まだJRに勤めていたから、休みの日がそのチームのセレクションしか合わなくて、「俺このチームしか行けないや」って(笑)
当時は若かったし将来性を見込んで採ってくれて、そこで、平日朝から夕方まで働いてそのあと練習していました。

その時は、その先を目指す上で、どんなモチベーションだったんでしょうか。

佐々木

最初は「試合に出たい。上手くなりたい」という一心。でも正直先輩たちとレベルが違いすぎて。Jリーグ経験者とか、JFLでプロ契約でやっていた人もいたから本当にみんな上手くて。毎日先輩にキレられながらやってましたね(笑)
でも充実していたし、少しずつなんとかついていけるようになってくるとやっぱり少しでもチームの力になってJFLに昇格したい、その一心で毎日やってました。

当時の中国リーグには、ファジアーノ岡山に弦巻健人・喜山康平・三原直樹・小野雄平とか、反則級の選手たちがJリーグからレンタルで来ていて、中国リーグ対戦したときは0-6とかで負けるようなレベル。

2年目には地域決勝大会があって、そこで松本山雅とやっても0-4で負けちゃって。自分も3試合フルで出させてもらえたんですが、本気でJを目指すならもっと厳しい環境に、レベルの高いところに行かなきゃダメなんだと思い知らされました。

2年で退団され、その後はカマタマーレ讃岐に。

佐々木

当時四国リーグで、セレクションで自分で売り込んで採ってもらえました。そこは1年いたけど、紅白戦すらも使ってもらえなかった。
そこから次は地元に帰ってきて1年間くらいフラフラと。トレーニングは自分でやってたんだけど、目標もブレてしまって。JRを辞めてまでそういう決断をしたのに、バイトしながら友達と頻繁に飲みに行ったり。

そこから盛り返すきっかけは何かあったんですか?

佐々木

サッカーもやっぱりチャラチャラやってたらつまらないなと再び気づいて。
それでまたセレクションを受けに行って、町田ゼルビアのセカンドチームに拾ってもらいました。サッカーだけじゃなくてサッカースクールのコーチとしてもバイトで雇ってくれるということになって。これはすごくいい経験ができるなと思って、そこで2年間お世話になった。1年目は東京都の3部で、翌年2部へ昇格することもできて。

親父に「アルゼンチンでチャレンジしたい」と言ったら「お前今更何言ってんだよ」と(笑)

その後、震災をきっかけに女川のチームに移籍されたり、都リーグのチームなどを経てモンゴルに渡られたそうですが、28歳で海外挑戦しようと思ったきっかけは何だったんでしょうか。

佐々木

都リーグのTFSC(東芝府中サッカークラブ)に居た時に、ここで一年やってしっかり自分の持ち味を出して自信をつけて、それで海外のテストを受けて絶対海外に行こうと決めていました。
自分の持ち味は、ヘディング、コーチング、体を張るところで、それだけは練習でもチームメイトに絶対負けないと思いながら取り組んで。当時の監督がすごく大らかで、「チャレンジするミスはいいんだ!」という雰囲気で、そこで思い切りプレー出来て成長できたし自分のサッカー観も作らせてもらいました。TFSCは一年しかいなかったけど今でも忘れられないチームです。

そして、TFSCでは決めた通り1年やって、ある程度手応えを。

佐々木

28歳になった年に親父に「アルゼンチンでチャレンジしたい」と言ったら「お前今更何言ってんだよ」と(笑)
でも親父とお袋がTFSCの試合を何度か観に来てくれるようになって、そしたら「お前やっぱりヘディングとかホント強いな!」とか声を掛けてくれて、一生懸命やっているのを実際見てくれてそれで少しは話聞いてくれるようになりました。
当時TFSCにも一人、海外に行きたいと言っている変わり者がいて(笑)お互いセレクションを探していたら、都内で「いろんな国に行けるチャンスがある!」という海外のチームのトライアウトをやっていて。若干胡散臭い感じだったんだけど、当時はツテがなかったからとりあえず行ってみました(笑)
そしたら、主催の人がモンゴルのFCウランバートルの監督で、2年目も続投することが決まっているって状態でのセレクションで。

武器であるヘディングの強さは屈強な選手の多いモンゴルでも活かされている(本人提供)

必要としてくれる場所に行きたいという思いが強かったです。絶対行きます。やってやろうって。

その状況で日本人を入れようって感じだったんですね。

佐々木

そう。1年目は日本人が2人いたんだけど、もっと補強したいということで。その監督は他の国にもツテがあるから、海外でやりたいという想いがある選手がいたら他の国にも紹介するっていう感じでした。

アルゼンチンに行きたいという目標から、モンゴルと聞いてどうでしたか?もうちょっとレベル高いところがいいなとか。例えば東南アジアとかヨーロッパの小さい国とか。

佐々木

アルゼンチンとモンゴル、ギャップありますよね(笑)でもその時は獲ってくれるって話を聞いた瞬間に「やった!マジか!チャンスが来た!」というのが率直な思いで。やっぱり必要としてくれる場所に行きたいという思いが強かったです。絶対行きます。やってやろうって。

家族も、日本からも文化も近いし、お相撲さんもいっぱいいるから親近感が湧いたっぽくて「あ、モンゴルならいいな!」ということになりました。はじめにアルゼンチンと言ってハードルをわざと上げておいて(笑)

見事に作戦成功ですね(笑)
モンゴルでは最初からプロ契約だったんですか?

佐々木

そう。でも給料もめちゃくちゃ安くて、向こうでギリギリ暮らせるくらい。1年目は恥ずかしいけど赤字でしたね。

冬にはマイナス20度近くにもなるウランバートル。試合中もネックウォーマーは必須アイテム。(本人提供)

日常生活などはすぐ馴染めたんですか?

佐々木

ウランバートルなど、大きい街の中心はすごく綺麗で栄えてて、離れてくにつれて少しずつ貧富の差が見え始めてきて、景色も草原になってくる。草原に住んでいる人は決して貧しいってわけではなくて。農業していたりとか。羊とか高値で売れるから遊牧民の人たちは結構裕福みたい。ただ街の外れに貧しい子どもたちや家庭はまだまだありますね。貧富の差はすごい。

チームの方も、所属する選手はさまざまな契約形態で、1部リーグの力を入れているチーム、スポンサーがついているチームはみんなサッカーでお金貰えて、代表クラスの選手はサッカーで十分やっていける給料を貰っている。現地の平均所得の2倍とか3倍くらいかな。

FCウランバートルのチームにもそういう選手はいたんですか?

佐々木

サッカーだけで食ってる選手もいました。あとは学生の選手もいて、お小遣い程度貰ってる選手とか、20代後半の選手でも時々別の仕事をしていた選手もいましたね。


前編では、モンゴルに渡るまでの日本でのチャレンジのお話を伺いました。
後編はモンゴルに渡ってからの苦労や、意外なあの超大物とのエピソードも。後編もお楽しみに!

現役モンゴルリーグ選手 佐々木瑞穂インタビュー 後編
Writer/Interviewer:キウチトウゴ

日野生まれ、多摩市在住。くさび社所属。緑色のものを追いかけるのが好きです。夢は多摩市に銭湯を作ること。

Photographer:絵美里

生まれも育ちも京王線沿い。くさび社所属のシングルマザー。愛猫のプティは最近新しい家族に。元美容師で、現在はライティング、フォトグラファー、デザイナー、古着屋の運営などなんでもやってます。

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